キリギリスの憂鬱1
「夏休みの宿題っていつやりました?」
手あたり次第聞きまくる。やらなきゃならんとわかっていながら、先送りした末の醜態である。
「アリとキリギリス」は、言わずと知れたイソップ寓話。胸を張って答えよう。キリギリスは私。ちがう。胸を張ってる場合じゃないでしょ。勤勉を卑屈に見上げる情けなさ。親の嫌味を背中に焦りまくった習性は、いくつになっても治らない。懲りない習癖。晴れやかな空に目を背けながら、備えのない秋を憂いている。あーあ。
「宿題なんて、早々に片付なかったよね」の仲間を探している。なんのために? もちろん一時の安寧を得たいのだ。喉から手が出ちゃうくらい欲しい答えなのに、誰ひとり言ってはくれない。
「最初の2日で終わらせた。そのあとのびのび遊ぶために」。あ、そうですか。そうですよね、そんな感じですね。
「最初の3日でばーっとやった。でもね、やりたくないのは残しちゃうの」え、そうなんだ。「でもね、ずっと気がかりなの嫌でしょ、結局すぐ片付けちゃうよね」それはそれはご立派なことで。幼い頃から、さすがだったんですね。「なに?」だってありがちでしょ、8月のサザエさん、カツオくんの毎年定番でしょ。なのに最初に終わしちゃうんだ。ふーん、優秀ですね。「なになに、今日は喧嘩したい日なの? 喜んで買うけど」。いやいや、ほんと、勘弁してください。猛者に勝てる気しないので。
宿題が終わらない。というか、やる気を出す自信がない。やりたくない。9月20日必着。修正提出期限が迫っているのは、2か月前に届いた宿題なんである。
情けない。レポート10枚書いたら、6枚の訂正指示が届いた。「なんだこりゃあ!」松田優作の殉職場面を真似をしても、何の解決にもなりゃしない。
資格取得のためのレポートである。最初に出したのは1月で、3月に発表したら、「条件付き合格」だった。5月に直して再提出したら、7月に再度再度のダメ出しが来た。恐れおののき見ないふりをした。6枚の指示には、「あなたは無能」のメッセージが織り込まれている気がする。どうにも向き合う勇気が出ない。
望んで手を挙げたのは自分だから、評価に異論を唱えるのは筋合いである。
「着眼点はユニークです。ぜひ精度を上げ完成させて発表しましょう」。慰めはいりません。ほんとは✕なんでしょ。気休めをくださったのですか? 熟考せずにぱぱーッと書いてしまった雑な仕上がりが、偉い先生方には透けちゃうんですね。絶対先が長そうだ。
でもさ、6枚ってすごくない? すっかりビビッて弱気なキリギリスなんである。いやいやいやいや、だからさ、そういうことこの段階で言ってちゃだめなんだって。
やりたくない。ものすごくやりたくない。手に余る。どして良いかがわからない。現実を受け入れられないから、全然向き合う気持ちが芽生えない。思考拒否で眺めるから、どうすりゃいいのか皆目見当がつかない。
なんなら小学生集めて、「宿題が苦手なんですクラブ」作りたい。中学生集めて「毎日悩んだけど取り組むまで行きつかなかった委員会」作りたい。大人を集って「宿題は自由裁量でいいんじゃないかを問いかける組合」を作りたい。あーだめだ、これはダメな大人認定だ。つまらない安心感のために他人を巻き込んじゃいけない。あーあ。
修正する猶予は2か月だ。受け取った時はありがたいことと、大きな感謝が確かにあった。「手と手を合わせて、なーむー」。2カ月間励んでがんばんなきゃと、心根を真っすぐにした。毎日自分の無能に向き合ううちに、そんな心根は、すっかり弱っちく寝そべった。卑屈で可愛げのない3年寝太郎状態に変化してしまいました状態なんである。
力のなさを正面から見られない。取り組む気がしない。言葉にしたら、動けなくなりそうだ。喉元までせりあがる感情は、呑み込めないけど吐き出せもしない。
いい年して、バケツ持たされて廊下で立ちんぼしている気分になる。耐えられなくて、なんならバケツの水を、自分でかぶってしまいたい絶望にかられそうになる。
忘れた日なんてなかった。でもやらなかった。やらなきゃいけない気持ちをずっと抱えていた。でもやらなかった。
ようやく腹をくくって向き合ったのは、締め切り5日前の夜である。せっかく立ち上がりかけた心を維持するために、助走つけるみたいにまずは指摘文だけをそのまま入力する。この段階でもう逃げたい。しかし、この状況は断崖絶壁、あとがない。すっかり土曜ワイド劇場ラストな場面気分。崖っぷちで自白独白シーンの心情である。いやいや、ここから降りるわけにはいかん。なんとかこらえてやり過ごすのだ。
弱音を厚手のゴムでまるっと包んで、指摘を受けたところを書き直していく。修正が済んだら取り消し線を引く。きちっと反映されているか照合する。文面が変。書き直す。おあった気になる。読み返せばまとまりのある体裁に整っていない。書き直す。見直す、ますますおかしくなっている。前後の文章が繋がらない。今日は無理、明日やろう。そんなこんなで書き直すこと5回。もうちょっと。もうだめだ。頭の中リセットしてからやり直そう。寝かせて手を入れるのはもう今日は無理。あくる日、悲壮の思いでつけ加えた文章を、後ろ髪惹かれる思いで全削除する。これでなんとかなるだろう。とやっと手に入れた安堵はすぐにひっくり返る。意味がますます不明瞭になる。焦りも、自信のなさも罪だよね。文字数ばかりが増えてしまって、ますますカオスを抱え込む。いたずらに時間だけを消費する。追加してまた削除。考え抜いたつもりの結晶がまるごと消えていく。本棚から資料を探す。昨日使ったのに見つからない。探すのに時間がかかる。やめてしまえと声がする。いや、まだだ。「やめちまえ」と「まだいける」が阿鼻叫喚しながら鬩ぎあう。ほんのちょっと、投げ出すもんかの負けん気が勝って、細い糸一本で疲弊しきった精神を紡ぎ直す。
追い込みをかけながら、気づいていく。
逃げたい、もう嫌だと投げ出したいとなる一歩手前で、放り出せない苦しさが快感になってくる。指摘は素直に受け入れよう。だけどそれだけでは済まさない。くらいつけ、ひっくり返せと藻掻く自分がいる。脳みそのシワを目いっぱいに寄せながら、もっともっとと深い解をひねり出そうとする自分が滲み出てくる。この作業がものすごく快感になってくる。私ったらひょっとしてM体質? などと楽しみだしてくる自分がいる。絶望に負けがちな自分を、必死に押しとどめるこの作業。かなり心地よい。あら、やだ、私ったら苦境が好きなんだわ。寝ても覚めてももっともっとと考え続けろ。もっと深みにもっと本質に近いものがあるはずだ。死に物狂いでたどり着いてみたい自分を発見する。
あーもうほんとに嫌、だけどきっともっと行けるはず。このエンドレスな繰り返し、飽きてきた。泣き言を聞かされるもう1人の自分が発破をかける。突き詰めてみなよ。どうせならエネルギー消費した分、行けるとこまで行ってみろよ。一段高いところから見る景色を楽しむまで行かなきゃ嘘だよ。
気を緩めると集中が散漫し出す。、今頃みんな平穏に過ごしているんだよなあ。うらやましいよなあ。妬み嫉みの感情が誘惑する。だけどもう振り回されない。今からでも冬に間に合うアリになって見なさいよ。こんなんで立ち止まってたまるかよ。どこかからしぶとく湧いてくる底力を楽しみだす自分がいる。
…ひどい顔である。目やにで左目が開かない。気力もない。アメーバみたいなこの弛緩。顔も洗わず、コンタクトは入らないから、化粧もせず、メガネさんで出かける。
宿題は早く終わらせる派の友人は、「なんだよ、その顔」と呆れている。人の不幸を喜んでいるがごとく嬉しそうにも見える。見下されている気分をやり過ごす。わたしゃキリギリスのなれの果てでござんすよ。笑いたきゃどうぞ笑ってくださいな。
「あのさあ、あなたはやらないわけじゃないんだよ」。「強いて言えば欲が深いんだよ」。「やらないんじゃなくて、練ってるんでしょ」え?「やってないんじゃないの、完成度を高めたいから練っちゃうの。手は動かさなくても、頭を動かしてるの」え? 「そんなひどい顔して自分を貶めるなよ」え? 「大丈夫だよ、十分考えたんだから。ちゃっちゃと考えなしに書くより、いいレポートになったんじゃないの?」なに、神様? ねえ、もう一回言ってくれる? 「やだね」。
そうか、練ってたのか。私、ちょっと偉いのかも。ほんとかどうかわからないけど、そう見てくれるなんてたまんないな。徹夜続きでぼーっとした頭に、何とも言えない幸福感が浸みわたる。
そうか、練ってたのか。手は動いてなくても結構、ちゃんとやってたかもだね。「なんだよ、ちゃんと聞いてんじゃん」。60手前でじゃんじゃんいうのも、行儀悪くてどうかと思うよ。「うるさいな、取り消すよ」ありがとね。「着火が遅いんだよ、その顔何とかしなさいよ」
赤いレターパック持って郵便局に行くと、窓口のお姉さんが美しく微笑んでいる。
ここ2カ月間、もんもんしたひがみ根性で見ていた世の中は、いつのまにかに秋の空である。白い雲が綺麗。進んで自ら足かせをつけたくせに、今日は「解放」だなんてタイトルをつけて、すがすがしさを存分に味わう。明日から彼岸入り、休日をどう楽しもうかうきうきしながら空を見る。眩しすぎて困るけど。
夏の宿題を最後まで残した仲間は、提出した後に見つかった。
「最後の日、親に怒られながらやったよなあ、あれはもう夏休みの定番行事」。
ふふふ、その答えを待ってたの。やっと仲間が見つかった。宿題なんて、追われてするもんだよねえ。さっさと終わす人生なんて、優等生じみてて嫌味だよね。しかしまあ、宿題のない自由はなんて尊さだ。解放感ってまさにこれ。まさにこの一杯のために生きてるよ。自由だ。晴れ晴れとした空みたいなこの解放感。ドライブ、山ヨガ、美術展。さて、なにして楽しもうか。今日から9月の3連休なんである。
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