
復活のビリジアン
深緑。最近縁のある色である。
靴のマーケットで試し履きをして、通販で靴を買った。黒を選んだつもりが、届いた色は深緑。粗忽な単純ミスである。
心機一転を試みて、カッコイイ黒のパンプスを買った。でも届いたのは、エナメルキラキラ深緑。なんなのもう、深緑。
駐車場でナゾの球体を拾った。色は深緑。機械油でてらてら光っている。これから大事な打ち合わせというのに、手は機械油でべとべとである。なんなの、深緑。この私に何か意見しようって言うの。

ならば、深緑色の意味を調べてみようとグーグル先生に尋ねてみれば。深緑の色の意味は、疲れ、不安、干渉やら呑み込まれやら。なんだ、マイナスメッセージばかりじゃないか。あれれ、下の方まで見たら「集合的無意識」とも書いてある。これならなんだか受け入れられるかも知れないわ。
深い水の底は見ることができない。
とか、詩的な文章を書き始めてみる。続けてみよう。
澄み切った水底は深さを惑わせる。忍野八海の涌池をイメージする。なんであの池の周りはいつも混雑するんだろう。底が見えない美しい水に映す、神秘と畏敬の念が表れるからだろうか。
澄み切った水。私の心は全然澄んではいないけど。
知ることのできない水底。見通せるのを可能にするなら、濁りがあったり、捨てられているゴミが目印になるのかも。見通しを立てられる材料は濁りや汚れだったりするものなのか。
いやいや、考えたいのは集合的無意識。混沌。サウンドオブサイレンス的な混沌。

2月の終わりから2カ月間。よくわからないものを相手に戦った。わからなさこそが恐怖だった。原因は99%外側のこと。でも、わからなくて苦しんだのはホントウノキモチ。心許なくて、ダーク版「ザ・女心と秋の空」的な断末魔。なんて言ったって、考え抜いたはずの結論が、時を追うごとにスライム様に形を変えちゃって、なにがなんだか捉えようがない。怪人百面相ごとき得体のしれない私自身なんである。
と思っていたけれど、これこそが年を重ねる変容過程なんじゃないか? 慰める言葉はすぐに空中に散らばってしまって、あちこち分布する分析不能なチャート図のようである。
ただ、ただ、自分を見つめた。どう解決しようかを一旦保留して。自分自身をなだめながら、眺め続けてみた。いかに今まで理屈や嗜好という形をとった思い込みに支配されていたかを知った。無頓着なんかじゃない。粘着質的な執着に気づいた。黙ることなく、かしましく煽り立てるたくさんの自分。手放そう。それができない焦りに支配される。
「チキンな58歳」などと、声を出してからかってみても、全然気分が晴れない。花を買って飾ってみても、気分が変わらない。
偶然見つけた神社の「登竜門」なんてものをくぐってみても、なんの変化も、兆しさえ来やしない。実は、手放したくない? 苦しみを大事に持っていたい? しかしだ。不思議なことに、結論だけは揺らがないんだから、心が分断しているとしか言いようがない。
人間でいることは辛いよな。辛いってさ、ちょいと離れて客観視してみても、なにも一つも解決しない。なんて考えていると、むかしむかしに恋い焦がれていた男のことなんぞも思い出す。余計に気分が悪くなる。

「かえるくん、東京を救う」(村上春樹2000年)
かえるくんは、満身創痍で戦った。戦った場所は、狙撃された主人公の男性の眠りの中だった。戦った後、疲れ果てたかえるくんは眠りについた。そして醜くなって溶けていった。
無意識の中では、自分が何者なのかも茫洋としている。自分が誰なのかわからなくなる恐怖。ぼんやりしているうちに、違う生き物になってしまうのではないかという恐怖。そう考えると、さして愛着を持っているとは思えない自分自身のアイデンティティって重要なんだな。悪夢は目が覚めれば魁皇されるというのに、その間さえやり過ごせない。
「何が起きているのかがわからない」って苦しい状況。手も足も動かない。口を大きく開けて思い切り息を吸いたいだけなのに、入ってくるのは粘度のある水ばかりで、苛まれる不安の沼。
あがけばあがくほど命取りになるって知っている。考えるそばから、正解からは遠ざかる。自分を諫めることにいっぱいいっぱいになる。
かえるくんが戦ったのは潜在意識。いつだって、熾烈な戦いを受け持つのは底の見えない水の底。たどりつけない奥の奥。
やっと終わった。早くそう言いたい。それだけだった。苦しみを乗り越えるのは難儀である。時が解決する。そう知っている。こんな思いは初めてとか言ってるそばで、実はけっこう、いやもっと辛かったことあったよな。急に冷静になれたりする。
「順調そうに見えるんですけど、けっこう波乱なんですよね」と、クライアントが言う。「そうなんですね」と応えながら、おだやかに生きている人って、実はそんなにはいないのかも知れないと思っている。「恵まれている方だと思うんですよ。でもね、いつも抱えていることが多くて」。
「いざという時、大きな力がそばにあって助けられる。でもそれって実力って言えないですよね。不思議なもので、どうすればいいのかって道筋だけはわかるんです。抗うべきじゃない。何回も同じことを考えて、でも苦しくて。後悔はないんです。でも、このもやもやは別物。払拭できない」
自分を重ねる。これは民が抱える苦しみ要素か。それとも時代特有の流れなのか。だとしたら恐るべし2025年。
でもそうやって今までやってこれたのでしょう。今日、言葉にして変わっていきそうなことはありますか?
言葉って不思議なもので、時期が来ると、勝手に体が動くんですよ。未来の道筋を探し出しているんですよ。なんだか、今日は占い師みたいんことを言ってるな。
「私でいられない気がするんです」。自分を大切に思っているのね。山が膨らんで、優しい色に変わるみたいな春山の兆し。新しい季節が来て、抱えていたなにかを手放して、新たな豊かさを手に入れる準備を整えているみたい。でも、手放すのって怖いですよね。
前だけを見ている時には素直に入ってくる言葉より、今、立ち止まって考えたい。変容する自分に備えたい。さあ、いざ進もうってなかなか気持ちがついて行かないかも知れない。でも、ゆっくりでいいんじゃない?
彼女にはもう進む準備ができている。進むための資源も備わっている。表情の変化からそれが読み取れる。「わからないけれど、なんかそんな気になってきました。」さっぱりした表情が輝きを取り戻したように見えた。
これはもう集合意識。深緑の定義はそっちの方に軍配を上げよう。彼女の表情を見て、私の中の小さな歯車がカチッと音を立てて回った音がする。深緑の意味か。疲れてる? 不安? あらま、私のこと言ってるの? 冗談じゃないよ、グーグル先生。
「なんでまた、そんな変な色の靴、履いてるのよ」
え、心機一転の相棒のパンプスですよ。なんか文句ある? 変な趣味。意味があるけど、教えてやんない。「また、訳の分かんないこと言って。肌荒れしてんじゃん」季節の変わり目だからだよ。これからこの靴と一緒に新たな世界に行くんだわさ。
久々の友人とのランチで、鮮度の良いお刺身を前に、鼻の孔が膨らむ初夏である。
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